シェルパ・ロッジ

炉辺談話

 

 

 こうして、火をながめておりますと、誰もいない山小屋の薪ストーブを思い出します。
 何でこんな山ん中をほっつき歩いているのだろうとか、食うものでもこしらえて静かに暮らせればいいなとか、火にあたりながらそんなことを考えていたのかもしれません。
 いま農業をやっていますが、なんで農業をやるようになったか考えてみると、「自然には逆らえぬ。が、自然には何でもある。」と実感したからでしょうか?
 社会とか文明とかいうものには、人間にとって必要なものが何でもあるようでいて、タマネギの皮のように、むいていけば何も残らないものかもしれないという気もする。一方で人間を苦しめるやっかいなものでもある。
 農業をやるようになった直接の動機ではないが、その「実感」を得た時の、ある経験からお話してみましょう。

 



(利根川源流丹後山)

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掌に唄う濡れ鼠

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 1971年9月中頃、初めて南アルプスに入った。グループ登山を離れ、そろそろ一人で山歩きをしだした頃のことだ。
 三伏峠から烏帽子岳の頂上に立ち、重畳たる山並み限りなく、空に合するところまで続く山また山に、あらためて日本は山国であることを確認し、その景観の中に村も家もなく、人間の住む都会の狭さ山の大きさを感じた。
 この時は、アルバイトの日が迫っていたのですぐに下山した。

 南アの一端を垣間見たこの後、北は入笠山、東は笊ヶ岳、南は大無間山まで、ほとんどの主な山を登ることになったが、南アの魅力は緑の豊富さ、動物の臭い、躍動するいのちだ。

 これからの話は、ちょっと道をはずしたことから大変苦労した山行記だが、ずいぶん南アでは道を間違った。麓には山林の手入れの道やけもの道が入り乱れ、指導標も北アほど整備されておらず、おかげでルートファインディングのいい訓練になり、20代最後の頃には、無積雪期に訪れたことのない北アの3000m級山岳(薬師岳―黒部五郎岳―三俣蓮華岳―弓折岳、他)の全く視界、標識、トレースのない豪雪の冬山でも単独で1週間以上縦走するまでになった。

 

 半月後の10月始め、今度は小渋川から大聖寺平―荒川岳―赤石岳―聖岳―茶臼岳―光(てかり)岳まで縦走した。すべて無人の山小屋を利用した。

 最初、茶臼岳あたりまでの予定であったが、食料が十分でなかったにもかかわらず、その先へ進む誘惑に抗することができなかった。おかげでぞくぞくする南ア深南部の魅力に触れることが出来た。

 大聖寺平では雪に見舞われたが、その後は好天に恵まれ、光岳まではまずまず順調に来れた。
 が、光岳小屋に泊った時から天気は崩れ雨となった。

 翌朝、赤石、聖は雪を冠っていた。
 10時頃小止みになったので出発。
 どんどん下る。すぐに草の露でぼとぼとになってしまった。
 廃屋にちかくなった柴沢小屋に着いた時は、ビニールの雨具はボロボロ、ぬかるんだ急坂で何回もすべっておしりはドロドロ。
 時間はまだ早かったが、ここに泊ることにした。
 この小屋は独特な雰囲気で、釣人がよく利用するらしく、他の山小屋とはぜんぜん違う感じで、妙に人間臭かった。

 雨は朝になっても止まなかった。
 食料は残り少なく、今日はどうしても寸又峡に下らねばならない。
 早朝出発し、まもなく半分屋根のなくなった栃沢小屋に着いた。
 ちょっと雨宿り。
 小屋の中に食料が残されていた。その近くにあった小屋日誌を見ると「寸又峡からここまでやっと辿りついたが、もう歩く元気がなくなった。帰るので食料を置いて行く。」というようなことが書かれてあった。

 さあ行くぞ、とばかりに、濡れた衣服もなんのその、勇躍下山路に向かった。
 ところが、この直後、なんでもないところで道を誤り、とんでもない苦労をすることになった。
 入山する前は茶臼岳あたりまでの予定だったので、このあたりの地図は持っていない。が、ここからは林道なので大丈夫だろう、と油断していたのだろう。

 道は次第に不明確になっていき、藪こぎとなった。両側の草がしなだれかかって、衣服がたっぷりと草の雫を吸う。稜線ではもう雪の季節、冷たい雨だ。体がぐんぐん冷える。止まればガタガタ震える。だからよけいにグングン歩いた。
 道は次第に登って行く。対岸のピークが雨に煙って見える。ずいぶん登ったものだ。明らかに間違っている。降りよう、戻るんだ。が、道はけもの道で入り組み、いったいどっちから来たのかわからなくなってきた。やたら歩き回って、何やら先ほど歩いたようなところにまた来た気もする。ぐるぐる回っているのではないか?リングワンデリングは雪山だけのものではなかったのか?
 寒さ、雨、夜…
 ちょっと、恐ろしくなってきた。いつまでもこんなことばかりしていられない。もう相当疲れてきた。
 雨をしのぐものがあれば一休みも出来たが、もう乾いた衣類も温かい飲物もない。とにかく急いで道なり小屋なりに辿りつかないと…。
 急な沢状のところに出会う。頼りは寸又川の川音だけだ。川に出れば道は近い。これを下るんだ。
 普通、登山の入門書にはよく、道に迷ったら川には降りるな、という。険谷断崖でにっちもさっちもいかなくなるからだ。しかし切羽詰ったこんな心理状況では、賭けに出るほかはない。一直線にその筋を頼りにダイレクトに滑り落ちるように降りて行く。体はしっぽり濡れ、ズボンはどろどろ、手は傷だらけだ。
 いつ終るともしれないその長い筋は沢となり、右を巻き、左に逃げ、なんとか寸又川に辿りついた。川は左から流れている。
 さて、どちらに行ったものか? 上流に行くがすぐに両岸絶壁となり進めない。下流にむかうと、しめた! 空き缶や、釣針の小袋が見つかった。
 人が来ている! 道があるに違いない!
 すぐに踏み跡は明確になり、道に導かれて吊り橋に出た。
 助かった!
 が、いったいどのへんを歩いているのか見当もつかなかった。なんでもいい、とにかくこの道に執着していればどこかには出る。
 やがてなんと、あの半分屋根のない栃沢小屋に着いた。ちょっと先のマチガイの発端である分かれ道を確認して小屋に入り雨をしのいだ。
 ここを午前中に出てから4時間が経過していた。半日も無駄骨をおったわけだ。もう身も心もクタクタだったが、とにかく濡れた衣類を脱ぎ、焚火をして乾かし、湯を沸かした。先程見た食料をありがたく頂戴し、なんとか人心地ついた。
 それにしても、よくここに辿りついた。ほんとうにありがたい。
 知っている道ならその4時間は散歩の時間ともなったかもしれないが、まったく不安不安そして恐ろしさを覚えた時であった。
 どんなにあの山の藪の中で、こうして回顧する時を思ったものか。暖かいラーメンを食べ、服も乾かし、着替えもした。これからはもっと慎重にやることを心に刻み付けた。実際この後、数え切れないほど道を間違ったが、必ず来た道を戻り、慣れるにしたがって、早く気付くようになり、戻る時間が短縮されていった。

 その日はそこに泊り、翌朝曇り空の中一路寸又峡に向かった。
 濡れる心配のない広いゆるやかな林道を歩いて行くといつしか晴れ間が…
 暖かい陽射しに心が緩み、鼻歌を唄う自分に気付いた。
 昨日の今頃は、濡れネズミになって生きるか死ぬかと騒いでいたのにナンダ。
 お天道様にしてみれば、ただ晴と雨の違いだけなのに、なんと人間とははかないものか。文化・技術を持たない裸の人間なんて、まったく自然の思うがままに翻弄され、無力であり、完全に自然の掌中にあるのだ。
 なんだか、神様に手を合わせて拝むという気持ちがわかるような気がした。

(1999.8.14記)

 

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突然お便りします

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「突然お便りします。
…都会生活のなか、さまざまなことに疲れてしまい、何がほんとうなのか、まやかしなのか訳がわからなくなってしまったという状態です。
唐突ではありますが、数日でも構いませんので、そちらで畑仕事等のお手伝いをしながら滞在させていただくということは可能でしょうか?…」

 

 先日、こんなFaxが届きました。

 神経質なせいか、うるさいところや人間がうじゃうじゃいるところは住みにくい。山でもシーズンは避け、あまりメジャーな山より辺境の山が良い。
 都会は確かに疲れる。山は時には猛威をふるうが、人を癒す面もある。

 上のFaxをくれた方は死ぬほどまでには思いつめてはいないでしょうが、たとえば、もうどうにでもなれという位ヤケになっている方、山に入ると良い。
 何も持たずに行く。
 姨捨山に捨てられた老婆なら、観念してじっと死を待つかもしれないが、若者なら、いつしか必死に水を求め、岩にしがみつき、夜を恐れる自分を発見するだろう。
 内なるケモノが顔を出す。
 原初の人間!
 そう、時代は移っても、ヒトはヒト。
 何を求め、何が必要か、が良くわかる。不必要なものを削ぎ落とし、核を見る。
 それは、食うこと、とか、健康である、とかいうごくシンプルなことだ。
 が、そのシンプルをバカにしてはいけない。それがすべてに通じるのだ。
 健康にとっての食い物とか、健康であるためには回りの生き物、環境も健康であらねばならない。
 それをつきつめていくと、どんな社会がいいのか、現代社会のどこが病んでいるのかが見えてくる。
 昔から、修験道の場が山であり、仙人やツアラトゥストラが山にこもるのも意味のあることだと思う。
 知ろうとして、万書を漁って見失う。知るには知ろうとしないこと。
 人の書いたものより、自然に聴け。
 未開人は本質を生きている。
 夜ごとの歌舞伎町でひとは、狂ったかのごとく灯かりに群がる蛾のように、昼のエネルギーを使い果たす。
 学校とか、会社とか、本質的でないものに適応できないからといって悩むことはない。
 だけど、実際そこにいる生徒や社員には、そこが世界なのだから、そんなことを言っても意味がないかもしれない。
 Faxをくれた人も、そんな中にいて、たまたま見た私のホームページに違う世界の臭いを嗅ぎ、活路を直感したのかもしれません。もやもやしたイメージが煮詰まって、丸太から自分なりの彫像が形になるのも近いかもしれません。

(1999.8.15記)

 

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「経済」に変わる価値

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 TV番組「スーパーテレビ情報最前線」で2つのレストランチェーンのしのぎを削る戦いぶりが紹介されていた。

 その1つのレストランの新入りの態度が印象的だった。
 接客を教育する若い女性上司にむかつくという。
 「いらっしゃいませ! いらっしゃいませ!」というロボット声。
 聞き手にとって気分がいいと思っているのであろうか?うるさいだけだ。

 「お客様の奴隷になりたい。」
 社長の言葉だ。
 こちらには、「お金の奴隷になりたい。」と聞こえる。
 今だに、ひと頃の猛烈サラリーマンみたいなことをやっているのか、と驚きだ。

 すんなりとそういう世界に入れない若者がいる。
 まあ、取りあえず、金は必要だから、稼ぐ方は割り切って稼いで、消費の方で好きなことをやるか、というのも一般的な考え方かもしれない。

 古き良き時代にはこうした人生観でも具合が良かったかもしれないが、今の時代ではちょっとずれていると考えざるを得ない。
 日々の生活の主要部分を占める労働時間が充実していないと、選択すべき人生とはならない。

 何か充実したもので貴重な時を埋めたい。
 新興宗教に走る人もいる。
 しかし、そこに待っているのは、金崇拝のグルにほかならない。
 信者には、信仰のためにすべてを奉げなさいと、金を掃き出させる。

 労働が有意義で、それで生活できれば、身を削るような会社であくせくしたくはない。
 そんな希望を持つ若者に、受け皿は用意されていない。
 どこへ行っていいかわからない。
 いつの時代も、新しい次の世代は、旧来の社会にすんなり迎合できず、もがき、あがき、そしていつのまにか、社会の大きな波にさらわれて行く。

 人生も安きに流されるが、社会も楽な道を選択したいようで、気がつけば、環境、人心が濁り、次世代に道を示すどころか、大人全体がアップアップしている。
 でも大人たちは本当にもがいてはいない。政治が一番よく示している。
 まだ金権がバックにあればなんとかなると考えている。
 山一、そごうも何とかしてもらえる。

 そんな状況の中、17歳の反逆は、まるで一度すべてを精算することを目論むかのようだ。
 何もかもがマチガイだ。
 マチガイの社会に俺たちの未来はない。
 北極の氷が地球温暖化のために解けるように、静かな勢いで底雪崩のような恐ろしい瓦解が始まったような…あの神戸の14歳の少年の事件は、我々に教えているように思う。
 メロンの好きなグルと、インチキ信仰に惑わされた優等生の事件の時代は終わった。
 どちらも古き良き時代最後の単純な産物であった。
 が、この14歳の少年と成長した17歳たちは、そんなものに己をゆだねはしない。

 

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 自分の20代の頃を振り返っても、アルバイトをしながら、ただ山をぶらぶら歩いて酒をくらい、刹那的に生きていた。
 それでも、職も定めないこんな状態はよくない、という気はあった。
 働く値打ちのある仕事はない。まともな仕事は農業ぐらいだ、とは考えたが、親が百姓でもない都会の子、どうやったら農業をやれるのかわからない。
 取りあえず、郊外の田園地帯で造園の仕事をやりだした。
 農業に近い仕事だし、田舎に居れば、農地もあるか、というだけのことである。

 造園の仕事は、山を崩して造成した分譲住宅の庭に木を植える?――矛盾した仕事のようで、どうも納得がいかない。木を植えるくらいなら、始めから森の中に家を建てればいいのに…。

 やがて農業しかないという思いはつのり、やっと始めたが、考えてみれば、農業も、山を崩して田畑を切り開く。同じことをやっている。

 自然回帰というようなことをいう。
 農業をやっている者からすると、それは文人の単なるたわ言か単なる比喩に聞こえる。
 農業は自然ではなく、文明の側にあるものであることをつくずく感じる。
 自然は、人間には決して優しいものではない。
 自然を鑑賞するにも、自然を探検するにも、食糧は文明が運んでくる。
 自然農法とて、人工的な農地における営みだ。

 以前、山際の畑を借りて耕作していた。
 山と畑の境目では、自然と文明がせめぎ合っている。
 ちょっと手をかけないでいると、どんどん山側から草が進入してくる。
 収穫間際にケモノに先に頂戴されてしまう。
 山奥の手をかける人がいなくなって見捨てられた農地はいつのまにか林になっている。

 逆に、古代都市文明が栄え、森を食いつぶした後には、草も生えない砂漠が広がる。

 自然と都市、その間の農地が、人間が自然となんとか折り合いをつけて生きれる場なのかもしれない。
 そこそこに食糧が乏しく、寿命がそう延びず、人口が増えない状態が、自然にとっても、人間にとっても、「持続的」な環境なのかもしれない。

 あんまりな農業機械化、エネルギー消費過多、食糧増産、過剰医療は、それらに反するものなのだろうが、これらを推進する動機こそが、これまでの目標であった「経済」的価値の追求だろう。

 「経済」すなわち金を第1価値とするのではない生き方が尊敬されるような世界観を前面に出していくことが急務なのだろう。
 しかし、自分もやれてないのに何だい。お前も同じだろうが、という内なる声もある。
 また、現在の農業そのものが、商品生産として利益追求の手段になっているのであるし、これから有機農業で違った価値を目標とすると意気込んでも、ベースとなる社会全体の環境が整わなければ挫折は目に見えている。

 貨幣の電子化から進んでマネーレス、信頼をベースにした貸借の相殺、言いかえれば、自らの労働提供で相手の労働提供に報いるような、現在でも農家や未開といわれる社会に存在するような長期的な人間関係の中で一つひとつの商品を貨幣に換算しないで提供し合う、贈与に対して贈与で報いるような関係が社会全体で出来るなら、人に善を施さなければ、自らに利が得られない構造なら、理想的といえよう。
 だが、そんなことは利己的な自分自身を振り返るまでもなく、実現不可能とも思える。
 しかし、世の中にはそのような価値観を持ち、自分など足元にも及ばない実践家もあるようだ。もし、人々の目標がそのような方向に万一向かうなら、人類も安泰かもしれない。
 自分としては、そんな大それたことはできないが、せめて家族か、知り合いか、できれば地域においてちょっとでも形にできれば上出来だと思う。

 現在の状況は、その「せめてもの家族」が崩壊しつつある。
 そのような空想的世界観を云々しているヒマもなく、足元から切り崩されて行く切迫した状況だ。
 まるで岩場で足元が崩れていく時に、片手が次のホールドをまさぐっているように切羽詰まっている。

(2000.8.記)

 

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 大国アメリカの横暴さがますます気になってくる。 
 CO2排出権取引というのは、金があれば (過度な)エネルギー消費も自由だ、ということだ。
 地球環境を守る倫理より、金を積めば、守ったことにしてもらえる、ということだ。

 金とは、一国の通貨を揺るがすようなヘッジファンドが動かす巨額の金も金であり、途上国の農民が稼ぐ1日の収入も金である。
 金の額と倫理や労働の重さとは関係がない。

 過去の歴史上、植民地時代や帝国主義時代において、力が世界を支配したように、現在、インターネットや英語そして資本主義をバックに、経済が世界を支配する。
 楽天的に考えれば、「力→経済→倫理」というふうに、支配形態が変わっていけばいいが、地球環境の破壊の進行のほうが、富が途上国にもまんべんなく行き渡る速度より早いかもしれない。

 しかし、本当にいいことが人類に血肉化するには、倫理を教え込むのではなく、せざるを得なくすることである。
 身体を動かすことが健康の為になり、人間の肉体労働には廃棄物がない、ということを実感し、実行することだ。
 もっと自然に触れる。自然の大きさと人間の小ささを実感する。土に密着した人々の暮らしに触れる。
 そんな体験を積み重ねれば、都会でチマチマバタバタやっているのも、シラーッとしてくる。

 シラーッとして、もうヤーメタ、と思うだけなら、多くの人ができる。
 でもそれから、何ができるか?
 これは、言うほど簡単ではない。

 

 戦後、アメリカのあとを追って、暮らしがどんどん変わってきた。
 ここに来て、アメリカナイゼーションに対する反省の兆しが出てきた。
 ファーストフードに対するスローフードや、『非戦』というのもそうだろう。
 90年代のアジアブームは、「アメリカを離れて、アジア再発見」ということを意味していると思う。

 観光バスの車窓からみるアジアと、ダグラス・ラミスが『内なる外国』で描写した基地から見たニッポンは、イメージだけを見ていて、何も見ていない。

 アメリカは、妄想と戦っているフシもある。誰よりもアジア再発見すべきなのはアメリカだろう。
 そこに、ニンゲンを、文化を発見するなら、アメリカももうちょっと頭が良くなるだろう。

 この時代、経済でもう一山当てようとしがみついているのも愚かしい。
 「国敗れて山河あり」
 経済に敗れて、山河を再発見する。

 みんな、そんな旅に出る時期であるのかも…。

 

 

 

 

 

 

(未丈ヶ岳雪洞)

 

(2000.12.30.記)
(2002.3.7.改訂)
 


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登山と農業

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「今日は元旦だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一パイ食い、いやになるほど正月気分を味わっていることだろう。(中略)それだのに、なぜ僕は、ただ一人で息吸が布団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唱う気がしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのであろう―」

これは、「単独行」の中からよく引用される加藤文太郎の文である。
昭和4年、冬の八ヶ岳に向った時のものである。

「日本山岳文学史」(瓜生卓造著)で、著者は、「彼の山は結果的にはストイックな山、殉教者の山であり、山に楽しみというものを持ちこむことがなかった。」としている。

加藤文太郎は31歳で北鎌尾根で滑落死した。
もし長生きしていたら、ひょっとして、メスナーと同じく、農業をやってみたいと思っただろうか。

メスナーが農業をやり出すに至ったのは偶然ではない。

エベレスト無酸素登頂というのは、決して楽しい山登りではない。
死と隣り合わせの過酷な試練である。
行(ぎょう)と言ってもよいかもしれない。

人はなぜ、死と隣り合わせの「淋しい生活を、自ら求める」のだろうか?

本来、生きるとは、例えば、アフリカのチーターが、必死に獲物を追いかけて食い物にありつくようなものである。
今この鹿を捕らえねば、いつまた獲物を獲得できるかわからない。逆に鹿の角で刺されてしまうかもしれない。疾走する間に、転倒して致命傷を受けるかもしれない。
まさに、日々が生きるか死ぬかの生活の連続である。

ところが、人間の実人生は、そこまで深刻ではない。
少なくとも、探検や山登りをやる人が多い平和で豊かな国では、日々食い物に必死になることはない。

山登り(特に、雪山単独登山など)では、そんな平和な暮らしでは経験できない、「生の実感」を得ることができる。
太陽の有難さ、食い物の尊さ、水のおいしさ、火の力、体力の限界、等を実感し、人間の能力・無力、文明の功罪、等について考えを深めることができる。

ところが、登山が発展するにつれ、装備はますます高度な科学技術に依存していく。
メスナーはテント内で注射をしていた。高山病対策か単なる栄養剤か知らない。
無酸素で登る意味はなんであろうか? なぜ人は、無酸素を称揚し、無酸素で自らも登ろうとするのか?
それは、酸素に頼っては、自分の力で登ったとは言えない。そんな罪悪感のようなものがあるからだ。
それでは、予め低圧室で高所訓練をしたり、薬やザイルの使用、ひいては、衣類や靴、テント、ストーブ、食糧・・これらはどうであろうか?
これらを使うことと、酸素使用は五十歩百歩であると言えるだろう。
本当に自分の力で、と言うなら、裸でハダシで手ぶらで頂上まで行ってこそだろう。
逆に酸素を使ってよいのなら、急斜面でも登れるブルトーザーを開発して登ったって同じだろう、と言う人もいるかもしれない。

話はそれたが、人間が社会化するにつれ、文明が発達するにつれ、人間が、自然と対峙して、食い物を得て生きるような原初的・動物的な体験はわれわれの日常では得られない。
カフカの小説に出てくるような仕事では、何のための人生かと立ち止まり考えることもある。その時に自然の中での人間に思いをめぐらすのは有効な方法だと思う。

皮肉にも、自然の中での人間というものについて教えてくれる登山とは、人間の実人生からいうと、不自然な活動であり、もっとも先鋭的な文明の所業である。
非生産的であり、快適を求めようとする生物の本能に反している。

順化して永住できる限界高度は5300mほどらしい。人間は、生きる場として、植物が育たないような岩と氷の世界を選択しない。
気候が温暖で、穀物生産に適し、牧草地があり、魚が獲れ、・・要するに総合的アメニティが二重マルの環境を選んで居住地とする。
登山には、自然を求めながら、生産的でないむなしさをぬぐい去れない。
かくして、登山家は農業を核とした人間のもっとも当たり前な生活形態に思いをいたさざるをえなくなる。

登山家とか、自然に帰れとかいう人は、本質的に都会人である。
農家で自然相手に仕事をしている人に、自然は切望されない。むしろ、道路とか、車とか、機械文明のありがたみを実感している。
人間は際限なく楽な暮らしを追求する生き物のようで、都会は田舎を飲みこんで、その半径を広げていく。
最もアメニティに富んだ自然環境の地域から都会化していき、本当の自然は、極地、ヒマラヤ、砂漠、海洋、宇宙といった、人間の住めないところしか残らなくなっていく。

先に、登山は「非生産的であり、快適を求めようとする生物の本能に反している。」と書いたが、より正確に言うなら、困難な環境に挑みつつ、そこでもいかに快適に登るかを探求している。その結果が、酸素であり、性能のいいテントやストーブである。登攀にしても、難しい壁の易しいところを登るのである。

(2003.3.10.記)

 

(遠見尾根より鹿島槍)



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自分を超えた存在

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濁れる水の流れつつ澄む

山頭火


 「行乞は一種の労働だ。殊に私のような乞食坊主には堪えがたい苦悩だ、しかしそれは反省と努力をもたらす。
 私は行乞をしないでると、いつとなく知らず識らずの間に安易と放恣とに堕落する、肉体労働は虚無に傾き、頽廃に陥る身心を建て直してくれる。――この意味において、私は再び行乞生活に立ちかへろうと決心したのである。」
 このように、山頭火は、上の句とは別なところで書いている。
 「流れる」とは行乞、「濁れる水」とは濁れる人間と読める。
 この句は、「濁れる人間が行乞をすれば澄んでくる」とも解釈できる。


 「生死の中の雪降りしきる」
 「こころつかれて山が海が美しすぎる」
 「ころり寝ころべば青空」
 「あたたかい白い飯がある」
 「飯のうまさが青い青い空」
 「腹いっぱい水飲んで寝る」


 行乞とは捨てる旅
 捨てて捨てて、最後に、山があり、海があり、空がある。飯があって、水がある。
 それが大事で、あとは大したものでない。

 仏教経済学という考え方がある。
 人間にとっての快適環境の拡大や人間の豊かさの増大ばかりを目指すのではなく、そこそこのもので満足して、本質をおろそかにするな。簡単にいえばそういうことだろう。
 「澄んでくる」とは、それに気づいてくることともいえる。

 チベットのカイラスに、ボロを着て命がけの旅をしている巡礼者を見て動揺する自分がいる。
 こころの中には何があるのだろう。ろくなものを食べないで・・。
 バンジージャンプに打ち興じている人の命がけとは、こころの中身が全く異なっていることだろう。


 しかし、人間のこころは、行乞と楽な暮らしの両磁極の間で、振り子のように揺れているというのが真実だろう。 
 四国巡礼の旅に出る人の過去は、もう一方の極に振れていたことだろう。
 ラサのディスコで遊ぶチベット人もいる。

 行乞や巡礼を目指す人のこころは、自然、神を見ており、我を捨て、自分を忘れている。

 楽な暮らしとは、しばしば他人の労働の上にあぐらをかくことである。見栄は他人との比較である。
 こころは他人を見ており、個と個の戦いであり、個は利己的な欲望に克てない。
 皆の幸せを考える政治家はおらず、地域の利益は自分の利益である。これも他人を見ている。
 一人間に全体は考えられず、任せられないし、無私は期待できない。

 自分を超えた存在を見る時しか人間は謙虚になれない。
 神を見る時、人間は本能的に、自分と他人の利害が一致するのを感じる。
 それは、人間が個人ではなく、人類体である、ということを感じた時でもあるだろう、と想像する。
 宗教が、人間の歴史の始源から現在まで重要であったのはなるほどと思う。


(2003.3.14.記)

 


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現代のお釈迦さん

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マズローの欲求5段階説というのがある。

1. 生理的欲求(睡眠、食、性)
2. 安全の欲求(自己防衛本能)
3. 親和の欲求(集団的帰属、愛)
4. 自我の欲求(名誉、尊敬、評価)
5.
 自己実現欲求(創造的活動、自己の成長)


例えば、星野道夫氏とか、植村直己氏の生き方を、上の1.から5.に照らし合わせて考えてみる。

これらの人は、結局は自然の中で命を落としてしまった。死ぬのはもちろん本人の意思ではなかっただろう。
彼らには、一般世俗の人たちと比べれば、上の2.から4.までの欲求は極めて少ない。
彼らを駆り立てたものは、「自己実現欲求(創造的活動や自己の成長)」に入るといえば入るのかもしれないが、むしろ、1.に含まれる(上記に記述はないが)基本的な深い欲求だと思う。
あれほどまでに厳しい自然に立ち向かい、身を置いてきたのは、もう都会には戻れぬほど、都会の生活とは比べきれないほど、自然の中で、多くの感動に出会ってきたに違いない。

子供の泥遊び、緑を見ての感動、海山空の神秘的な奥深さ。
アスファルトよりは土、コンクリートのビルディングよりは森、プッラスティックよりは木、石油の火よりは焚き火…
人間が持つこの原初的な欲求は、1.に含めて良いものだと思う。


また、この2人の生き方を、生活の糧から考えてみる。
前者は、アラスカの原野の中で過ごすが、日本の都市社会とパイプを通じて、写真家として生きる。
後者は、探検を求めて世界を駆け巡るが、生活の糧は日本で後援者を募ったり、講演などで稼ぐ。

どちらも、どっぷりと現地人になって、エスキモーのように狩猟で生活を営むのではなく、片足は日本に置いている。
これもひとつの生き方である。
こんなのは過去にはなかった、現代だからこそできる方法である。伝統的エスキモーにはマネのできない生き方である。伝統的エスキモーになれない(なろうとしない?)生き方でもある。
自然に近づきつつも、自然から距離のある生き方ともいえる。


多くの一般の人には、まず生活である。
でもあまりにも自然から離れた生活になってきたり、不快になるほど自然破壊が進みすぎると、この重要性が顕在化してくる。

この2人は、我々現代人の気持ちを代弁するとともに、我々に自然の意義を再確認させ、進路の修正に示唆を与えてくれている。

「自然に近づきつつも、自然から距離のある生き方」でなく、本当に自然と調和して、自然から生活の糧を得る生き方というのは、科学や経済学が解決できる範疇ではない。
胡散臭いカルトでなく、そろそろ現代のお釈迦さんが出てくるころではないか、と思うのだが…。


(2003.5.24.記)




 (つづく)


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