森崎 隆
1997年1月〜
 「英語について」

世界がひとつになるにつれ、ひとつの言語―国際語の確立が待たれるわけだけど、その時、ある特定の国(国々)の言語が国際語になるのをおもしろくないと考えるひとりではあるが、私は英語がやはりその地位を獲得するだろうと思う。もちろん、英語が自国語にとってかわるというのでなく、バイリンガルの状態がずっと続くだろう。

エスペラント(ちなみに中国語ではエスペラントのことを「世界文」と書く)を主張するひとや、英語支配を憂えるひとの考えどうり、数十年は不愉快な状態が続くだろうが、現在の非英語圏で、英語を第二言語(または第一言語)として駆使するひとの数が、現在の英語圏の人口を上回るようになった時、英語は新たな段階を迎えると思う。

現在使われているいかなる言語も、かつては一地方の部族語であったに違いない。多くのひとに受け入れられるにつれ、その言語はもとの地方の特殊性を捨てながら、新たなより普遍的な文化を表現するにふさわしい言語へと成長していったに違いない。

現在、第二言語として使っている人の英語を聞くと、国はさまざまでも、ある種共通したわかりやすさがある。私が実際に聞いたのは、韓国、中国、台湾、フィリピン、フィジー、マレーシア、シンガポール、インドネシア、バングラディシュ、インド、ネパール、パキスタン、イラン、イタリア、フランス、アメリカのプエブロ、ニュージーランドのマオリ等の英語で、いずれもネイティブの英語より格段にわかりやすい。

英米語の研究者には、「それは高度な表現をまだ知らない段階の人の英語だからだ」といわれそうだ。

確かにそうだが、もうひとつ、アメリカ人、イギリス人の使っている英語の(我々非英語語族にとっての)わかりにくさは、アメリカとかイギリスとかいう地方の特殊性である。

非英語圏英語のわかりやすさのひとつは、英語の普遍性である。

英語は、アメリカ、イギリスの特殊性を捨てながら、より多くのひとに受け入れられ、成長して行くに違いない。だから、我々非英語語族にとって、彼らの地方固有の文化に根ざした英語表現は、アメリカとかイギリスとかいうローカルな対象を研究するのでなければ、我々のコミュニケーションの道具としての英語から抹消してもよいものだ。無理して解りにくいイディオムに取り組む必要はない。
自国なりの英語を育て、年季を積めば、やがて対等になれるのでは、と思うが、楽観的だろうか?
むしろ英語しか使えない英米人より、2カ国語が使えて有利になると思うのだが。

他の大言語―フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語、中国語、日本語、インドネシア語(マレー語)がこれからどうなるか、興味深いところだ。

特に、英語や、西洋に敵愾心のようなものを持っているフランス、イスラム教国などの動向が気になる。

また少数民族の文化がどう英語に反映されていくのだろうか?
おそらくそれら他の文化や言語により英語はより豊かになっていくだろう。(1997.記)

***

[国際語・共通語・地球語としての英語/関連図書]

 ダグラス・ラミス「イデオロギーとしての英会話」晶文社 1976.10

 増田純男編「言語戦争」大修館書店 1978.1


 渡辺武達「ジャパリッシュのすすめ―日本人の国際英語」朝日選書 1983.1

 鈴木孝夫「武器としてのことば―茶の間の国際情報学」新潮選書 1985.9

 ロレト・トッド「ピジン・クレオール入門」大修館書店 1986.7

 小林素文「様々な英語」研究社出版 1988.11

 中村敬「英語はどんな言語か」三省堂 1989.1(←特におすすめ)

 R・マクラム他著、岩崎春雄訳「英語物語」文芸春秋 1989.4

 津田幸男「英語支配の構造―日本人と異文化コミュニケーション 英語支配の構造」第三書館 1990

 大石俊一『「英語」イデオロギーを問う―西欧精神との格闘』開文社出版 1990

 本名信行編「アジアの英語」くろしお出版 1990.12

 R・マッカラム他(長谷川潔註解)「英語・米語・世界の英語」成美堂 1991.9

 津田幸男編著「英語支配への異論―異文化コミュニケーションと言語問題」第三書館 1993.2

 ダグラス・ラミス(池田雅之編注)「内なる外国」北星堂 1994.7

 太田雄三「英語と日本人」講談社学術文庫 1995.9

 津田幸男「侵略する英語 反撃する日本語―美しい文化をどう守るか」PHP研究所 1996.5

 ザメンホフ著、水野義明編訳「国際共通語の思想―エスペラントの創始者ザメンホフ論説集」新泉社 1997.6

 川喜田二郎「川喜田二郎著作集 (13) 創造と伝統」中央公論社 1997.8

 

関連URL

英語崇拝からの脱却
esperanto2
Open Directory Project: Esperanto

エスペラント語でのディレクトリ検索サービス

日本「アジア英語」学会
私情つうしん

【関連図書追加】(1998年以降)

 デイヴィッド・グラッドル著、山岸勝榮訳「英語の未来」研究社出版、1999年1月刊
The English Company (UK) Ltd
「英語の未来」の最新情報であるThe Global English Newsletterも配信する。

 デイヴィッド・クリスタル著、國広正雄訳「地球語としての英語」みすず書房、1999年1月刊

 本名信行編「アジアをつなぐ英語―英語の新しい国際的役割」アルク新書 1999.4

 鈴木孝夫「日本人はなぜ英語ができないか 」岩波新書、1999年7月刊

 深見東州「下手な英語の話し方」たちばな出版 2000.1

 鈴木孝夫「英語はいらない!?」PHP新書、2001年1月刊

 津田幸男「英語下手のすすめ―英語信仰はもう捨てよう」ワニのNEW新書、2000年7月刊

 船橋洋一「あえて英語公用語論」文春新書、2000年8月刊

 國広正雄・対談「英語が第二の国語になるってホント!? 」たちばな出版、2000年11月刊
(対談者)船橋洋一,加藤周一,グレゴリー・クラーク, 鈴木孝夫,高円宮憲仁親王,千田潤一,深見東州


 三浦信孝, 糟谷啓介編:「言語帝国主義とは何か」藤原書店、2000年刊

 鈴木義里他編「論争・英語が公用語になる日」中公新書ラクレ 2002.1

 井上史雄「日本語は生き残れるか―経済言語学の視点から」PHP新書 2001.08刊

 本名信行編「事典 アジアの最新英語事情」大修館書店 (2002/11)

 本名信行編「世界の英語を歩く 」集英社 (2003/11)

 津田幸男「英語支配とは何か―私の国際言語政策論」明石書店 (2003/12)


Learn English online at GlobalEnglish, English as second language
英語メディア

地球語・世界言語としての英語について

 


ブロードバンドが一般化してきた近年、リスニング教材として使えるサイトがグンと増えてきた。
お金をかけないで生の英語に触れられるありがたい環境だ。               2003.9

■リスニングに役立つサイトのリンク集

リスニング・イングリッシュ

English Navi リスニング

【英語タウン】オンラインで英語学習/リスニング

ESL/EFL Teaching/Learning Resources-Listening Comprehension




■リスニング教材サイト

OM AUDIO- English Dialogues

Free Listening Section on The English Listening Lounge

Landall's ESL Cyber Listening Lab

【関連図書追加】(2004年)

 渡辺武達「グローバル化と英語革命―ジャパリッシュのすすめ 」論創社 2004.02刊

 竹下裕子「世界は英語をどう使っているか―“日本人の英語”を考えるために 」新曜社 2004.06刊

 中村敬『なぜ、「英語」が問題なのか?―英語の政治・社会論』三元社 2004.07刊

 茂木弘道「文科省が英語を壊す」中公新書ラクレ 2004.09刊
 
以下は、2005.6.19 記
◆リンク
佐久町・八千穂村合併協議会  第7回会議録

上記の文章のうち、ここで関連のある部分を、「英語について」資料1 に保存してあります。

長野県南佐久郡の「佐久町」と「八千穂村」は、2005年4月に合併され、「佐久穂町」となりました。
この会議録は、合併する前年に新町名について検討しています。
佐々木氏が、sakuho とは、英語のスラングで好ましくない意味があるので再検討して欲しいという意見を出したことを受けて討論しています。
八千穂村にAETで赴任していたマイク・ディビス氏の発言が発端になっています。

なぜ他国の言語である英語で好ましくないから、日本の町名を検討したいとしたのか?
佐々木氏が、元々単に「佐久穂町」という町名にしたくなかったにしろ、英語でそういう意味だから使わないほうが良いと本当に考えたにしろ、英語を基準にしていることに変わりはない。

結果的には、常識的に、その意見は却下され、「佐久穂町」が採用された。
当然だろう。(今の時点では)こんなことはさらりと流してよい問題だ。

しかし、もし日本人の多くが英語を使えるようになったとしたら、佐々木氏のような意見を言う人が増えていくかもしれない。

その時、日本は英語の植民地か?
あるいは、
(将来の時点で)英語は国際語であるから、つまりだれもが口にする言葉だから、さらに言いかえれば、もう英語は自分の言語とも言えるから、それを基準に地名や人名を決めるのは当然なのか?

この資料は興味深い例であるので、リンクとして掲載しました。


結局、自国の伝統や文化を守りつつ、国際的なコミュニケーションの道具としての英語を採用するという考えでいけばよい。
この考え方で、上記の例を解釈すれば、「佐久穂」の漢字の持つ元々の立派な意味を伝え、英語のスラングでは、他の意味もある、としておけば良い。
chicken に、coward の意味があるからといって、チキンを食べない人はないだろう。プロレスラーでさえ、チキンで筋肉を増やしているだろう。いちいち気にしていることはない。
yellow には、卑怯の意味があるが、これはキリストを裏切ったユダの服が黄色だったことから好ましくないイメージがある、と説明されるが、それもキリスト教圏のことで、仏教圏のものがそんなものにとらわれる必要はない。
「青森」は青々とした森であり、blue(わいせつな)森ではない。

ただ、上に述べたように、将来、日本で英語が一般的に通用する言語になった場合、たとえばテレビの漫才で、blue には、わいせつな意味がある、とか言われてその意味が有名になれば、子供の名前に青の字をつける人は少なくなるだろう。
しかし、これも、日本人にとって、blue(青)と、「わいせつ」が結びつかなければ、定着した意味とはならない。
それが、伝統や文化を守りつつ英語を取り入れる態度につながると思う。



2005.10.31 追記
Ken Doll というアメリカの人形がある。ブロンドの典型的アメリカ人の姿をしている。
集英社の Imidas 1999年版の付録「最新英語雑学事典」(信 達郎・監修)173ページに、この人形について次のような記載がある。

「あたりさわりのない男」とか、「型にはまりきった男」を Ken と呼ぶこともあるので、ケンジとかケンイチくんを「ケン」と呼ぶのは考えもの。

これも上記の佐々木氏と同じ考え方である。
この考え方では、高倉健さんや、全国のケンさん、ケンちゃんは、「あたりさわりのない男」とか、「型にはまりきった男」になってしまう。
 

【関連図書追加】(2005年)

 山田雄一郎「英語教育はなぜ間違うのか」ちくま新書(2005/02)

河添恵子「アジア英語教育最前線―遅れる日本?進むアジア!」三修社 (2005/03)

 津田幸男「言語・情報・文化の英語支配―地域市民社会のコミュニケーションのあり方を模索する 」明石書店 (2005/04)
 
薬師院仁志「英語を学べばバカになる」光文社新書 2005.5刊
 ―― アメリカは世界のスタンダードではない。英語もまた然り・・・という論立て。

祖慶 寿子「アジアの視点で英語を考える」朝日出版社 (2005/08)

 
【関連図書追加】(2006年)

 本名信行編「英語はアジアを結ぶ」玉川大学出版部 (2006/03)

 津田幸男英語支配とことばの平等―英語が世界標準語でいいのか?」慶應義塾大学出版会 (2006/09)

 河原俊昭編「アジア・オセアニアの英語」めこん (2006/11)


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